『パンドラの匣』再読。

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久しぶりに手に取ってみた。吉行淳之介の箸休め的に。

終わり方はもとより、内容は大概忘れていたが、登場人物に竹さん、マア坊がいたことは覚えていた。

今、読み直してみると素直に読み進められない部分もあった。例えば、主人公の道場での位置づけが、いかにも男にとって都合のいい立ち位置であること。すなわち、主人公は、自分の気になる女性二人から、影ながら愛されているというような。

また、主人公の竹さんに対する理想化は、私に言わせればいかにも子供っぽい。自分に対して、こじんまりした「贔屓」をしてくれる竹さんに、竹さんはそのような人ではない、そのような甘っちょろい、言い変えれば古風に「女々しい」人ではない、だからこそ好きだ、という主人公の自分勝手な論理。

しかし、そこは太宰治。このような読者に対する効果もある意味計算のうちだろう。吉行淳之介の小説に比べ嫌味が全くないから、軽やかに読み進められる。人の下卑た悪意を無理矢理探しだそうとするような、あからさまな心理小説の影響みたいなものはない。ただし、吉行淳之介の場合、この独特な嫌味こそが、彼の小説の魅力の一つでもあるのだが。

それはさておき、『パンドラの匣』で、主人公は自分に対して「新しい世代の人間」というような形容を何度も用いる。「新しい男」は明るい、軽やかだ。漱石の『こゝろ』のようなストーリーを辿って、その結末が実に軽快で、さわやかで、さっぱりしていて、それでいて哀しくて明るい。竹さんと主人公の和解は、悲劇的過ぎなくて、でもだからこそ味わいがある。

ラストシーンも鮮やかだ。快復期のような、読後感がある。本当に素晴らしいラストだと私は思う。これこそが「新しい」主人公だ。

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